人妻の条件

人妻を成立させる条件こそが人妻の唯一の魅力である

「夫を持たない人妻」というのは、この世に存在しません。

「夫の存在」という条件は、「人妻」という存在を成立させるための最低条件であると同時に、「人妻」の魅力を担保する最大の要素でもあるといってよいでしょう。

「人妻」と混同されがちな対象としては「未亡人」というものがあげられますが、これは、厳密には「人妻」ではありません。

「未亡人」というのは、「死別による夫の不在」を条件として成立している婦人のことを指す言葉です。ですから、「夫の存在」によって成立する「人妻」とは、似て非なるどころか、その成立条件において、真逆の、対立する存在ですらある、と私は考えています。

人妻好きのなかには、未亡人をも人妻の一種として大雑把にとらえるタイプの人がいますが、彼らが愛したり、性的対象といて考えている未亡人という御婦人は、結局のところ「もと人妻」でしかないのであって、「現役の人妻」ではないのです。

本文において、「人妻」という言葉が使われる場合、「現役の人妻」のみがその対象として扱われており、「人妻以外の女性」と峻別されている、ということは、あらかじめことわっておかなければならないでしょう。

人妻の魅力の秘密を解く鍵は一つしかない

人妻の魅力の秘密を解く鍵は一つしかない

「人妻」を成立させる条件としてあまりにも自明すぎて、それほど顧みられることがない「夫の存在」という条件をわざわざ取り上げたことには、もちろん、意味があります。

というのも、この「夫の存在」という人妻を成立させる最低条件のなかには、「人妻」と呼ばれる女性を、「人妻ではない女性」とまったく違うものとして認識させ、性的な欲望をさえ抱かせてしまう不可解な理由、人妻という存在が持っている名状しがたい魅力の「秘密」「謎」を解くための「鍵」が隠されているのです。

「人妻」「未亡人」を分ける以上の断絶が、「人妻」「人妻ではない女性」の間には立ちはだかっています。この断絶が、「未亡人」のときと同様、「夫の存在」というものによってもたらされている、ということは、言うまでもありません。

人妻好きというのは、「人妻ではない女性」「夫」の獲得によって「人妻」になる、という「結婚のプロセス」を経験しており、かつ、「結婚生活」によって「人妻」であることを維持している限定された女性だけを愛している男性の一群を指す言葉として理解されなければならないでしょう。

なぜ人妻にこだわるのかという謎

人妻好きの男性たちは、「人妻」が、離婚や死別などで「人妻ではない女性」になった途端に、その「もと人妻」の女性に対する興味を全面的に喪失することにもなるでしょう。

人妻を好きではない男性からすると、人妻というものに特権的な性的魅力を感じている男性に対して、「なぜ人妻という存在にそれほどまでに異様にこだわるのか。同じ女性なのではないか」という疑問を投げかけることにもなるのではないかと思います。

傍目には、「人妻」「人妻ではない女性」を峻別する外見的な特徴などは一つも見出すことができません。「人妻」「人妻ではない女性」を分け隔てるのは、ただただ「夫」の存在だけなのです。

なぜ、人妻が好きな男性は、「夫の存在」によってのみ成立することになる「人妻」という女性たちに、心を惹かれ、欲望を抱くことになるのでしょうか。

人妻の魅力の言説はほとんど間違っている

人妻の魅力の言説はほとんど間違っている

「人妻の魅力」として語られている様々な魅力について、私は、「そのほとんどが間違いである」と考えています。

なぜならば、「人妻の魅力」として語られることになる魅力の数々は、「人妻ではない女性の魅力」としてもすべて通用してしまうものであるからです。
結論から言ってしまうと、「人妻」だけが持つことができる特別な魅力というのは、「夫がいる」ということ、ただ一つだけです。

これは、逆にいうと、「夫がいる」という魅力が、「人妻以外の女性」にとっては、「人妻」にならない限りは逆立ちしても手に入れることができない、まさに「人妻のみの特権的な魅力」であるということを指します。

では、さっそく、「人妻の魅力」として語られがちな、「夫がいる」ということ以外の「ステレオタイプな魅力」を見ていきながら、それらの魅力が、どれひとつとして「人妻」のみに適応される魅力ではない、ということを検証していくことにしましょう。

人妻の魅力として語られる「大人」という特徴について

「人妻の魅力」として語られるステレオタイプとしては、「『人妻』は『人妻ではない女性』に比べると『大人』である」というような言説がまずは挙げられるのではないかと思います。

この言説において、「大人の魅力」というのは、「色気」「母性」「包容力」「落ち着き」「献身」というような言葉で表現され、これらの言葉は、「人妻」だけが所有可能な「特権的な魅力」として語られます。

これらの言葉が、「人妻の魅力」として語られると、思わず「なるほど。これは確かに、結婚というプロセスを経て、たゆまず結婚生活を維持している人妻のみに固有の魅力であるに違いない」と納得してしまう人もいるのではないかと思います。

ですが、これらの「大人の魅力」として語られることになる諸要素は、「人妻ではない女性」たちも容易に獲得できるものであり、また、「人妻以外の女性」によって多く所有されている魅力である、という事実を忘れてはならないでしょう。

むしろ、「色気」「母性」「包容力」「落ち着き」「献身」といった言葉であらわされる魅力は、その言葉を冷静に吟味すればするほどに、これらの特徴を持っている「人妻以外の女性」の存在が無数に思い浮かんでくることになる言葉たちであると言わざるをえません。

大人の色気という魅力は人妻だけの所有物ではない

独身女性、極端な話、十代後半の女子高生などであっても、「大人の色気」としか言いようがない特徴を持っている女性たちというのは数多く存在しています。

おそらく、「大人の色気」に属する要素が好きな人は、「熟女」が好きである場合がほとんどです。このような事態が起こるのは、「人妻」という存在が、年齢的に「熟女」に属しやすいことから起こる混同のためでしょう。その混同に気づかず、「人妻」というジャンルに属する女性に無自覚に適応しているだけだ、というのが私の意見です。

さらにいうと、「大人の色気」というものは、「年齢以上の成熟」をしている大人っぽい女の子が所有している魅力でもあり、大人びた女の子である場合は女子高校生といわず、女子中学生でさえも「大人の色気」がありますから、「熟女」のものでさえありません。

「大人の色気」というのは、女性一般に適用できる魅力であるといえるでしょう。

母性は人妻にならなくても獲得できる

「母性」にも同じようなことが言えます。「母性」というものも「人妻」に特有の魅力ではありません。それは、「母」に属する特性である上に、「女性一般」が所有可能な特性でもあります。

女性は、「母」という存在でなくても「母性」という特性を持つことができます。「子供」がいなければ「母」になることはできませんが、「子供」がいなくても「母性」を持つことは可能なのです。

幼少期に、女子高生や女子大生くらいの年齢の年上の女性に対して強い「母性」を感じた、というような経験はないでしょうか。

あるいは、親戚や友人の子供をあやしている、未婚であったり若い女性を見たとき、それらの「人妻以外の女性」「母性」がにじみでる、ということを思い出すのもよいでしょう。

私の個人的な感覚で恐縮ではあるのですが、明らかに自分より年下の女性(未婚、若年層)と会話をしているときに、不意に「母性」と言わざるをえない感覚に包まれることもたびたびあります。

「母性」という特徴は、年齢的な条件、配偶者、子供の有無などとは関係なく、それらを超えて、もとから「母性」を備えている女性から、状況に応じて滲み出てくる特徴である、というのが私の考えです。

「母性」を持つ女性のなかには「人妻」が含まれることもあるだろうとは思います。しかし、たとえば、子を持つ「人妻」の身でありながら、幼児虐待やネグレクトなどを行う女性のなかには、「母性」の欠片もない、ということになるでしょう。

このように考えていきますと、「母性」というものが、「色気」と同様に「人妻」「特権的な魅力」でないことが明らかになるはずです。

人妻は献身的であることを強制されてはならない

「包容力」「落ち着き」「献身」といった魅力も、「色気」「母性」と同じように、というより、それ以上に、「人妻」に固有の魅力ではないということは明らかであり、あらためて説明するまでもないと思います。

このような言葉になってきますと、「色気」「母性」などと違って、「女性一般」ですらなく、男性も含んだ「人間」が誰しも獲得可能な特性ということになってくるわけで、「人妻の魅力」として語られていることが馬鹿らしいくらいです。男性のみなさんも、人間的魅力である「包容力」「落ち着き」「献身」を身につけることをオススメします。

特別な「人妻の魅力」として取り上げる価値がひとつもないこれらの「一般的な特性」の言葉のなかで、しかし、「献身」という言葉に対しては、男性が「人妻」というものに抱いている「イメージ」の貧しさと暴力性、「人妻」に与える無自覚の抑圧を知るうえで、少しばかり触れておいてもいいのかもしれません。

「人妻は献身的である」というようなイメージを人妻に与えようとする男性は、家父長制に毒されすぎていると言わざるをえません。

献身的に無償の家事労働などを行うのがたまらなく好きだ、という制度に従順な「人妻」に対しては何も言うことはありませんが、そもそも「人妻」は(男性に対して)献身的である必要はまったくありません。

むしろ、私個人としては、「献身」というイメージは「人妻」から取り払われなければならないものだと考えています。

「人妻の魅力」として飛び込んでくる言葉たちは、どれも、男性が抱く「人妻」に対する都合のいい考え方と間違い、制度に無自覚なおぞましい姿勢が滲み出ていることが印象的なのですが、この「献身」という言葉は、「母性」と並んで、それの最たるものであるといえるでしょう。

女性としての「経験」という観点も見当違いである

女性としての「経験」という観点も見当違いである

「人妻」について語られる様々な魅力というのは、「夫がいる」ということ以外は、「人妻」にオプションとして付随させることは可能であっても、「人妻」を成立させる条件でもなく、「人妻」だけの魅力でもありません。

「人妻」の魅力として、さきほどは「大人」というものに属する諸要素について見ていったのですが、「人妻」は、一方では「女性としての経験」という方向から語られることがある存在でもあります。

それらの「女性としての経験」という言説は、「大人」に属する諸要素(落ち着き、包容力、母性、献身)などと重なり合い手を組みながら、「人妻」について、「人妻は男性との性行為の経験が豊富である」「人妻は男性の気持ちを理解している、男性の扱いがうまい」「家庭を持っている女性の強さがある」というように展開していく傾向がありますが、正直なところ、書いていて悲しくなってくるような言説です。

こちらの「女性としての経験」についての諸要素や言説についても、改めて、同じような説明を繰り返す必要はないのではないかと思います。

「男性の経験が豊富」であるとか、「男性の気持ちを理解している、扱いがうまい」だとか「女性としての強さがある」ということは、「人妻以外の女性」にもことごとく適応することが可能な特徴であることは言うまでもありません。

もし本当に「家庭」で強くなったなら人妻は不倫をしない

全体的に馬鹿らしいなかで、「家庭を持っている女性の強さ」がある、ということについては、少しだけ言及することにしましょう。

人妻好きの男性というのは「夫がいる女性」であるところの「人妻」に手を出して「不倫」をするわけです。

ということは、「人妻の魅力」として「家庭を持っている女性の強さ」というものを提示することになる人妻好きは、「不倫」をしている「人妻」に対して、「そのような魅力がある」などと言っていることになります。

夫がいて、もしかすると子供もいるような「家庭を持っている女性」である「人妻」が他の男と「不倫」していた場合、そのような女性に、果たして「家庭を持っている女性の強さ」などがあるでしょうか。

むしろ、「家庭を持った」ということくらいでは克服できなかった「女性としての弱さ」が、「人妻」「不倫」をうながしたということになるのではないでしょうか。

「人妻」になり「家庭を持って強くなった女性」もいるでしょう。しかし、「不倫」をする「人妻」のなかに、私は「家庭を持って強くなった女性」などは一人もいないと考えています。

「強い」という価値基準をもし導入するのであれば、むしろ、一人でたくましく孤独に生きている独身女性のほうが圧倒的に「強い」存在だと思います。
「強い女性が好きなのだ」というのであれば、なにも「人妻」にこだわる必要はないのだし、女性の「強さ」に関して「家庭」の有無はあまり関係がない、というのが私の考えです。

このようなことが「魅力」として語られてしまう事態は、「夫がいる」ということ以外には特定の魅力を持たない「人妻」という存在を、無理に褒めようとしたことによってうまれた悲惨なのだといっていいでしょう。

それでも人妻を選ぶ理由はなんなのか

それでも人妻を選ぶ理由はなんなのか

ここまで、「人妻」について語られている「魅力」というものが、「人妻以外の女性」にも、ほとんどすべてが適応することができる魅力であるということをおおまかに見てきました。

「大人の色気」「母性」「包容力」「落ち着き」「献身」「女性としての経験」「男性への配慮」「女性としての強さ」も、「人妻の魅力」として語られることが多かったことのすべてが、「人妻」の特権的な魅力ではありませんでした。

そのうえ、「人妻」に手を出すということは、その「夫がいる」という唯一の「魅力」のせいで、「不倫」になるわけで、そこには「社会的なリスクを背負う」というデメリットまでついてきます。

このように見ていきますと、「夫がいる」という魅力以外のすべての魅力を、「人妻以外の女性」のなかに見出すことができるうえに、「リスク」も犯さずにセックスができるのですから、論理的に考えられる男性であれば、「人妻」を回避し、「人妻以外の女性」を選ぶことになるはずです。

ところが、事情はそう簡単に、論理だけに則って進むのではなく、「人妻」という存在はたえず欲望の対象にされつづけているのであって、人妻好きと呼ばれる男性の一群はつねに一定数存在している状況が続いているのです。
なぜなのでしょうか。ここではじめて、「夫がいる」という、「人妻」にのみ特有の、条件であると同時に唯一の魅力である事項について、ようやく触れることができるはずです。

背徳感の背後にあるもの

「人妻」と関係を持つことの魅力としては「背徳感」という言葉が頻繁に使われる傾向があります。

この言葉だけは、確かに「人妻」という「夫がいる」ことで成立する女性と関係を持つことの魅力としては、他の代替可能な魅力に比べると、かなり有効であるように感じます。

これまで、「人妻」の魅力は「夫がいること」だけである、ということを執拗に主張してきたわけですが、この主張は、そのまま、「関係性を持つことに背徳感が生じる」というものに言い換えてもいいのかもしれません。

しかし、私はこれを「背徳感」の一言で終わらせずに、その「背徳感」がどこからくるのか、という出どころや、その背後にあるものについて、「夫がいること」という条件から考察していきたいと思いました。

その考察は、人妻好きと呼ばれる男性たちが、「人妻」という、「人妻以外の女性」にほとんどの領域をカヴァーされてしまっているにも関わらず、「夫がいる」という条件一つで、それらの「人妻以外の女性」と峻別される存在として扱われ、欲望を向けられる仕組みについての考察となるでしょう。

人妻とのセックスは関係性と制度で雁字搦めである

人妻とのセックスは関係性と制度で雁字搦めである

人は「他人が欲望しているもの」「欲望する」と言われています。
自分のなかから「自分の欲望」が湧き上がってくるのではなくて、「他者の欲望」を通して「自分の欲望」というものが芽生えてくる、という三角関係の構造が個人の「欲望」を成立させています。

それほど欲しいと思っていなかったものも、それが他人によって所有されていると知ると欲しくなる、というのが「欲望」の基本的な形というわけですね。

「欲望」というのは「関係性の網目」のなかで発生するものでしかなくて、「関係性がない」場所に、欲望は生まれ得ない。

純粋な「欲望」というものもあるのではないか、「誰かが欲望していない」ものを「欲望」したことがあるぞ、というような突っ込みもあるかもしれませんが、すくなくとも、「このような『関係性の網目』のなかから発生する欲望がある」ということだけは、確かであるように私には思われます。

「人妻好き」「人妻」、そして「夫」の関係性を考えていきますと、私は、この「関係性の網目」から発生する三角関係的な「欲望」の発生の非常にシンプルな形を見るような感覚があります。

それに、このような「欲望」の形態を取り出してみないことには、人妻好き、と呼ばれる男性たちが「夫」を持ち、また「夫」に所有されもする「人妻」のみを、「人妻ではない女性」と峻別し、欲望の対象として特権化する理由が見いだせないようにも思われます。

「人妻好き」の男性は、出会い募集掲示板などで欲求不満という欲望をむき出しにしている「人妻・熟女」というものを通して、「関係性」「制度」というものとセックスしたがっているのではないか、というのが私の考えです。

人妻好きは関係性とセックスしている

まずは、関係性についてですが、ただただセックスがしたいだけであれば、その性欲の対象が「人妻以外の女性」であっても構わないわけです。しかし、人妻好きと呼ばれる男性は、そのセックスの対象として「人妻」を選び、限定しています。

この「人妻」の選択からは、「関係性の網目に陰茎を挿入したい」という人妻好きの欲望が垣間見えるように思います。

人妻好きは、「人妻」と呼ばれる極めて限定された存在とセックスしながら、「関係性とセックスをしている」のです。

「人妻」というのは、「夫がいる」という条件によって、「関係性」が可視化された女性であるといえるでしょう。その条件の消失とともに、「関係性」はまた見えないものになります。

ところで、「人妻以外の女性」も、パートナーがいる場合は、「他人によって欲望」されていて、曖昧にではありますが、他人によって「所有」されているともいえるわけです。

そこには「関係性とセックスする」という要素が、やはり孕まれています。「関係性とセックスする」というのは、ですから、「人妻」とセックスするときの魅力の一つであるとはいえ、その決定打にはなりません。
この「浮気」というものの登場によって、「人妻」との「不倫」は、またしてもその特権性を奪われ、「人妻以外の女性」のもとへと回収されることになるのでしょうか。

浮気と不倫を区別する「制度」とのセックス

ここで、「制度とのセックス」というものが浮かび上がってくるのではないかと思います。

「人妻」とのセックスにおいて回避することができない「制度」について語らない限り、また「人妻以外の女性」「人妻」の特権が奪われることにもなってしまうでしょう。

考察は不十分ですが、人妻好きが「人妻」とセックスすることによって、「関係性」だけでなく、「制度」ともセックスしていることになる、ということに関する私の考えは、以下のようなものになります。

セックスというのは、多かれ少なかれ「制度」と寝るという側面、「制度」によって雁字搦めであるという性質を持つものではありますが、人妻好きの男性が「人妻」の女性とするセックスというのは、とりわけこの「制度」と寝るという側面が見えやすく、それはいわば、「結婚」という「制度」によってかろうじて成立しているセックスであるわけです。

人妻好きの男性が「人妻」に挿入するときの快楽については、「結婚」という「制度」に、みずからの陰茎でもって裂け目をいれることによってのみ得られる快楽だと言うことができるのかもしれません。

背徳感の正体と人妻セックスの快楽

おそらく、「背徳感」と呼ばれている感情は、この「結婚」という「制度」にこじあけられた裂け目を指す感情なのではないか、と私は考えています。
人妻が好きな男性は、「パートナー」という暗黙の了解で結びつきあった他者ではなく、「結婚」という制度によって結びついた「夫」という他者を強く求めているように私には感じられます。

それを強く求めるのは、そのような「制度」が横たわっているほうが、「関係性のセックス」が、より「快楽的」になるからではないでしょうか。

反対意見も多くあるかもしれませんが、人妻好きでセフレ募集掲示板などを利用する男性が、「パートナーがいる人妻ではない女性」ではなくて「人妻」を選ぶ理由や、「人妻」の魅力というのは、突き詰めていくと、ここにしか見い出せないのではないか、と私は考えています。

「人妻」を成立させる条件は「夫がいること」にしかなく、「人妻」にだけ特有の魅力というのは「夫がいること」しかない。その「人妻」だけの条件や魅力は、関係性と制度で雁字搦めになった「人妻セックス」の快楽へと繋がっているのです。